音楽史

このページには、私とピアノとの数十年の付き合いの中での葛藤、良いこと悪いこと
思い出すと笑ってしまうことなどが、事実に基づいて記してあります。

今となっては、私が体験した事は余り大した事ではないのかも知れませんが、
当時(今から約20年前)私の周りに私と同じような境遇の子は居ませんでした。

もっともっと大変な思いをなさった方、ピアノを習っているお子さんが現在居る方、
たまたまこのページを訪ねてくださった方、この私の音楽史を読んで
「あら、こんな子も居たのね〜」と思って読んで頂ければ嬉しいです。
ピアノとの出逢い
一人旅
やめたい気持ち
中学から高校まで
受験失敗
仲直り
あとがき

ピアノとの出逢い

私が初めてピアノを弾いたのは、まだ自分の記憶にもはっきり残らないくらい幼い時だったと思います。
母がピアノ教師なので、家にはピアノやたくさんの楽譜がありました。なので、気がついたらピアノを
弾いていたと言った感じです。
 
一つだけはっきり覚えているのは、TVでやっていた「水戸黄門」のテーマを、自分なりに伴奏を付けて
弾いていた事です。ピアノがある所に行けば、それをみんなに自慢げに披露していました。恐らく
3歳か4歳の頃だったと思います。

その後母とのレッスンが始まり、良く泣きながらピアノを弾いていました。レッスン中の母は、それは
怖い怖い先生でした。私には歳の離れた兄が二人いるのですが、その兄達も怖い目に遭ったらしく
「もうお母さんには習わない!」と捨てぜりふを残してやめて行き、残ったのが私だけ・・・。

レッスン中の母が厳しく、怖かったのは良く覚えていますが、それでも私はピアノをやめようとは
しなかったみたいです。(母談) 家に出入りしていた調律師さんが、「楽器と演奏者には“相性”と言う
のがある」と言ってらしたけど、私はピアノとの相性が良かったのかな?

幼稚園に入るとヤマハオルガン教室に入り、それとは別に週に1度、男のピアノの先生が我が家に
来ていました。りんごの絵を良く描いたのを覚えています。多分あれは、音符の長さの勉強だったんだと
思います。私は先生が描く形の良いりんごの絵が好きでした。その先生とのレッスンは、小学校に入る
辺りで終わりました。
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一人旅

小学校1年生の夏休み明けから、新しいピアノの先生の所に通うことになりました。
電車を2本乗り換えてバスに乗って、隣の市に住む先生の所まで片道1時間。幼い私には長旅でした。

その先生は今までの先生とはちょっと違うんだと言う事を理解するのに、それほど時間はかかりません
でした。今までゆっくり楽しくやって来たバイエルは、1回のレッスンで2,3曲のペースで終わらせ、
その他に曲を仕上げると言う英才教育(!?)。それもそのはず、その先生は東京芸術大学を首席で
卒業なさったと言う方でした。

そんな先生のレッスンを無駄にしないように、家での練習にも熱が入りました。私は、ただただ母に
言われるがままにやるだけでしたが、旅行から帰って来た夜も、次の日のレッスンに備えて夜中まで
母との練習が続きました。

私のレッスンは日曜日だったので、母や兄が交替で付き添ってくれていたのですが、ある日誰も付いて
来られないと言うことになりました。もちろん、父も都合がつかず・・・。普通ならその時点で「今日の
レッスンはお休みしましょう」と言うことになるんでしょうが、ピアノに関してはスパルタの母が、そんな
優しい事を言うはずがありません。

「ここに、行き方を書いた紙とお金があるからね」と母から交通費と電車の乗り換えの指示が書いてある
紙を渡され、とうとう一人でレッスンに行く事になった7歳の私。泣いたって何したって絶対許されない
雰囲気を感じ取った私は、一人でとぼとぼ家を出ました。

すると、何て気分の良いことでしょう。一人で行動する事の気ままさと、一人前として扱われたと言う
誇らしさに気分はルンルンでした。それからの私は、付き添いを申し出る家族を断り、週に一度の
一人旅を楽しみました。
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やめたい気持ち

しかし、その一人旅の楽しさがいつまでも続いたわけでもなく、もちろん途中で何度もピアノを
やめたくなりました。その理由の一つに、私のレッスン日が日曜日だったと言うこともあります。
当時は週休2日制ではなく土曜日もばっちり授業があり、休日は日曜日だけ。それなのに、
日曜日は往復2時間かけてピアノのおけいこに通わなくてはいけなかったのです。

日曜日はお友達と遊んだり、地元の子ども会の行事に参加したりと言うのが、私の周囲の子達の
“日曜日の過ごし方”でした。もちろん兄達も・・・。だけど私だけはそれが許されず、雨が降っても
雪が降っても、長靴を履いてレインコートを着て、一人でてくてく近くの駅まで歩き、そこから電車と
バスを乗り継ぎ、ピアノのレッスンに通うのでした。 
 
よっぽど調子が悪くない限りレッスンを休ませてもらえず、先生の都合で平日にレッスンを変更
されれば、学校を早退してレッスンに行くと言うのが当たり前になっていました。

そんな厳しい環境のお陰で、小学校2年生の頃にはバイエルも終わり、4年生になるとバッハの
インベンションを始めました。
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中学から高校まで

もちろん、中学校に入学してからもピアノを続けました。しかし色々制限がありました。
「運動部に入ると日曜日に大会があるから文化部に入るように。」と、あくまでも“ピアノ第一”の
母の言うとおりに好きでもない美術部に入りました。

しかし、やはり多感な年頃だったのと、それまであらゆる行動を制限されてきたのが一気に爆発したのか、
私は母に反抗するようになりました。それでもピアノだけは続けていたのは、きっと私が根っからの
ピアノ好きだったのと、ピアノの先生との関係がとても良かったからだと思います。

そして高校は、県立高校の音楽科に入りました。私のピアノの先生がそこでピアノの講師をしていらした
のと、家から自転車で通える距離だったのと色々好条件がそろい、その高校への進学を決めました。

特別学科だったので学区域もなく、県立高校にしては珍しい3倍近い競争率。そんなすさまじい(?)
受験戦争を乗り越えてきた40人と、机を並べて勉強した3年間は本当に楽しく有意義なものでした。
40人全員が何らかの音楽のバックグラウンドを持っていて、授業のカリキュラム自体も半分が音楽関係。
良いのか悪いのか、毎日が音楽漬けでした。

クラスのほとんどが音大を受験すると言う状況で、私も何の迷いもなく国立と私立の教育系音楽を
受験しました。
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受験失敗

タイトルから見てもわかるとおり、受験は失敗でした。
1年浪人して2度目の挑戦でもまた失敗。

今までピアノ中心に生活して来て、ピアノの為に色々な物を犠牲にして来た私が、何でこんなにも
ピアノで苦しまなくちゃいけないんだ??と、2度も受験に失敗した私は大いに傷つき、嘆きました。

そして、私は音楽に関するあらゆる物を避けて暮らし始めました。ピアノや楽譜はもちろんのこと、
音楽に関する話題に触れるのも避けました。わざとらしいぐらいの私の態度は、周りに居る両親や兄弟、
母のピアノの生徒さん達にも気を遣わせた事と思います。

ピアノや音楽に触れないで暮らすこと3ヶ月、ある日母が「ひよ子、2番目に好きなものは英語だって
言ってたよね。アメリカに行ったら?」とアメリカ行きを提案してくれました。

そう言えば、高校2年生の夏休みに行ったアメリカでのホームステイから帰って来た時に、私は
「留学したい」と両親にダメ元で頼んでいたのでした。その時に母は「あらダメよ。あなたにはピアノが
あるでしょう」と一言。私の留学希望は母の一蹴りで無しに。

今までず〜っとピアノを優先にして来た母も、受験に失敗して嘆き悲しんでる娘を目の前にして
責任を感じたのでしょうか、母の意外な一言が、私のそれからの人生を大きく変えました。
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仲直り

そして19歳の夏、アメリカ、カリフォルニア州に行き語学学校に通いました。受験での辛い思いも
すぐに吹っ切れて充実した毎日を送っていたある日、ルームメイトのキャロルの誘いで、近所の
カフェに出かけました。

その小さなカフェには、数人のお客さんとサックス奏者が一人。そして、店の隅に古びたピアノが1台。
その頃の私は、ピアノを弾かなくなってから半年くらい経っていました。しかし、そんな私の事なんて
お構い無しにとんとんと話が進んで、その場でそのサックス奏者と演奏することに。

久しぶりにピアノに触れてびっくり。と言うかそのピアノ、音が半音ずつずれていたのです。
ドの音を弾くとシの音が出る。何の曲を演奏したのか全然覚えていないけれど、どうにかこうにか
その狂ったピアノでサックスの伴奏をした私。久しぶりのピアノの感触といきなりの出来事に、
もう心臓はドキドキ言っていました。

しかし、それよりも何よりも周りのみんながすごく喜んでくれた事が嬉しくて、私の中でドロドロしていた
物がす〜っと解けて行きました。「ああ、私やっぱりピアノが好きなんだな」と強く感じたのもその時でした。
そしてその思いはすぐに「ピアノが弾きたい」と言う欲求に変わり、すぐに学校の先生に話しに行きました。
先生は、キャンパス内にあるあちこちのピアノに案内してくれ、いつでも弾いて良いと許可をくれました。

それからの私は暇があればピアノを弾きに行き、徐々にピアノと仲直りをしました。

3ヶ月間の語学留学を終えて日本に帰国した私は、カリフォルニアの太陽をいっぱい浴びて真っ黒け。
そして、心も色々なしがらみから解放されていました。
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あとがき

あれから数年経った2003年夏、今私はアメリカ・アリゾナ州で音楽の勉強をしています。
ソロ演奏だけでなく、ミュージカルの伴奏や歌の伴奏、コンクール・・・と、今まで以上に深い
付き合いが続いています。

このピアノとの付き合いの記録をまとめて気が付いたことは、私のピアノとの付き合いは、
私と母との付き合いでもあったと言うことです。 小さい頃は「母が居るからピアノをやらされる」と言う
思いがありましたが、今は「母が居たからピアノを続けて来られたのではないかな?」と
感じます。

子供に何かをさせ、習わせるのは大変なことです。この思いは、自分が子供を持ってもっと痛感すると
思います。母に「お母さんの根性があったから、私はピアノをやめ(られ)なかったんだよ」と言うと、
母は決まって「あら違うわよ、ひよ子はピアノが大好きだったからよ〜」と言います。

この記録の中で、母に関して“怖い”とか“厳しい”とか色々書いてしまいましたが、今となっては
母に対して“感謝”と言うこの一言しかありません。そして、あんなに邪険にしたのにずーっと
私のそばに居てくれたピアノと、これからもずっとずっと仲良くして行こうと思います。
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